象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。
象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。
幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。
彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。
(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」
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