『蜻蛉日記』の筆者。伊勢守(後に陸奥守)藤原倫寧の娘だが、彼女の名前は分からない。生没年は935〜995頃。王朝三美人の一人といわれているが、肖像画が残っているわけではないので確認できない。右大将道綱の母、とだけ呼ばれている。それでもここで取り上げたのは彼女が、今日では珍しくもないが、当時の最高権力者、一代の王者、藤原兼家との二十余年にわたる私生活を暴露した「勇気ある先駆者」だからだ。ただ、きれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気で…と、その私行を余すことなく暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではなかったろう。また、執筆し続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入るばかりだ。
 今日では、スターと別れた彼女が、」そのスターの素顔を好意的に、あるいはおとしめるために手記を書き、マスコミで取り上げられベストセラーになることはよくあることだが、当時は新聞も週刊誌もなかったから、彼女がいくら書いても1円の原稿料も入ってくることはなかった。それにもかかわらず、彼女は書きまくった。一代の王者として、もてはやされているその男が、彼女にとって、いかにひどい男だったかを、世間に知らしめるために。
 天暦8年(954)、藤原兼家の度々の求婚を承諾し、18歳(?)で妻となる。兼家は26歳。この時、兼家には時姫という正妻があり、長男道隆もすでに生まれていた。翌年夏、道綱を産む。道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けた。また、期待を懸けた道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らが後に政権を取ったのにひきかえ、たいした出世をしなかった。
 『蜻蛉日記』は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から書き始め、4年かけて976年頃にできあがったといわれている。冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。当時彼は、役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司だ。彼女の父は、いわゆる受領−中級官吏だから、願ってもない縁談だった。
それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も大したこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった!」と冷然と書いている。これでは、未来の王者も全く形無しだ。それでも兼家はせっせとラブレター(和歌)を送り続ける。いかにあなたに恋い焦がれているか−と。そして、どうせ本気じゃなんいでしょう?−という返歌を書く。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる。当時としては結婚の標準コースだ。
 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女はこの日から激しい嫉妬にさいなまれ始める。その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。   既述した通り、兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。『蜻蛉日記』にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になってくるほどだ。これだけ書けば、妻といえども、夫に嫌われることだけは間違いないだろう。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」
 道綱の母 当時の一代の王者、藤原兼家の私生活を暴露したマダム