文化6年(1809)6月、加賀藩主前田斉広が招いた学者、本多利明は「経世済民」論を説く中で「海に国境はない」と明言した。この言葉は、39歳から廻船業に乗り出した銭屋五兵衛が持ち前の決断力と実行力で、次第に海運界で頭角を現し、その全盛期には藩の枠を越え、国を越えた貿易に乗り出す際、常に意識していたことだった。本多の論旨はこうだ。経済という言葉は元々「経世済民」の四文字から取られたもの。経世済民というのは、世を整え民を救うという意味だ。換言すれば仁政を施し、困窮農民を救うということだ。そのためには日本の各地域でできる産物を、地域同士で交換する必要がある。それには陸、海を含め交通が滑らかでなければならない。ところが、現実は二百数十の国々(藩)があり、境を設けている。海はさらにひどい。国を閉じている(鎖国)ため港に外国の船が入ることができないし、日本の船が外国に行くこともできない。しかし本来、海に国境はない。日本の土地には限りがある。日本に住む万民の需要を日本の産物だけで満たそうとしても無理だ。やはり外国から産物を輸入しなければならない。日本もこの際、思い切って大船をつくり外国と交易を始めるべきだ。
本多の「経世済民」論に深い感銘を受けた五兵衛は、加賀藩執政奥村栄実と交流を重ねて得た前田家御手船鑑札を武器に、業容を飛躍的に拡大。前田家から年々強いられる金銀調達(=損失)をはるかに上回る利益を得た。江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前、松前、箱館などに大規模な支店を置き、津軽の鯵ヶ沢、田名部、伊豆の下田、戸田、越後柏崎、越前三国の要地に出張所、代理店を設け、その数34カ所に上った。嘉永4年(1851)ごろ、五兵衛の持ち船は千石船クラスの船が10艘、五百石以上が11艘など大小合わせて200艘を超えたという。
全国の取引先は当時の豪商を網羅していた。江戸の松屋伝四郎、京都の太物問屋近江屋仁兵衛、万屋林兵衛、大坂北堀江の加賀屋林兵衛、安達町の炭屋安兵衛、兵庫の北風荘右衛門、青森の山本理右衛門、越前武生の金剛屋次郎兵衛、越中伏木の堀田善右衛門、越後柏崎の牧口家、酒田の本間家などだ。
彼は西廻り航路、東廻り航路のいずれも利用し、藩際貿易により巨利を得た。蝦夷地の海産物を江戸、大坂へ運送。幕末には江差3000軒といわれる商家のうち、1500軒は加賀衆だった。蝦夷随一の豪商村山伝兵衛も能登出身だ。彼の蝦夷地における商品仕入れが順調に行われたのは、現地加賀衆の協力が得られたためだった。全国諸藩の商人たちは、加賀百万石の前田家御手船鑑札を見ると五兵衛を信用し、どのような信用貸しにも応じるというわけだ。
加賀百万石の藩船を駆使しての信用力を背景に、幅広く海外と密貿易していたとの例証がある。オランダ語などを話せ、絵画、彫刻、算数、暦学、砲術、馬術、柔術なども究めたという通称大野弁吉とめぐり合い、伝承を含めて記すと、五兵衛は朝鮮東方近海の竹島(鬱陵島)でアメリカ捕鯨船と交易。樺太へも進出し、山丹人を相手に家具類を売り、現地の産物を仕入れ、大坂で売却していたという。またロシア沿海州の港へ米を運送し、毎年2万石を売却していた。この事実は五兵衛の死後、嘉永6年(1853)に長崎へ入港したロシア使節プチャーチンにより日本側にもたらされた。勝海舟も「銭五(銭屋五兵衛)の密貿易なんていうことは、徳川幕府ではとっくに分かっていたけれども、見逃していたのだ」と言っている。
このほか、五兵衛は豪州南部のタスマニア島に足跡を印していたという話もある。海外に限らず、藩を越えての交易としては薩摩藩領近海での例がある。五兵衛の持ち船が、薩摩南西端の坊津湊へ風待ちのためしばしば入津したことは、現地でもよく知られていることだという。坊津は薩摩藩島津家が密貿易に利用した湊だ。巨万の富を得た銭屋も奈落に落とされる時がくる。79歳の五兵衛が晩年、子孫の繁栄を願って試みる最後の大事業、河北潟干拓工事で投毒容疑をかけられ、逮捕されてしまう。そして藩の手で、巨大な財産は全部没収された。そのうえ五兵衛は執拗な拷問の果てに、嘉永5年(1852)80歳で牢死し、息子の要蔵は磔になる。銭屋は徹底的な弾圧を受けたわけだ。
銭屋の先祖は武士だった。小岩を姓とし、前田利家の家来で舟岡山城主高畠石見守定吉に仕えていたが、善兵衛の代に関ケ原の合戦後、帰農して能美郡山上郷清水村に住んだ。善兵衛の子吉右衛門のときに金沢に移住し、さらに寛文年間に宮腰に引っ越して質屋と両替商を始め、それまでの清水姓を捨て、銭屋を称するようになった。それから徳兵衛、市兵衛、三右衛門、五兵衛…と続く。この五兵衛は、ここで取り上げた五兵衛の祖父である。
(参考資料)南原幹雄「銭五の海」、津本陽「波上の館 加賀の豪商・銭屋五兵衛の生涯」、童門冬二「海の街道」、同「江戸の賄賂」、日本史探訪/「銭屋五兵衛
獄死した豪商の雄大な夢」、安部龍太郎「血の日本史」銭屋丸難破
銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」 |
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