嘉永4年(1851)、娘のお歌に婿養子を迎えた。花婿は寺町今出川に住む上田家の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な26歳の青年だった。養父となった初代新七はこのとき50歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とともに家業に精を出した。時代は幕末、大きく変わろうとしていたときだった。新七父子は、いろいろ世間の声を聞いた結果、高島屋は木綿と呉服を扱うことにした。新次郎は仕入れのため北河内、中河内と歩き回り、現金払いで木綿地を買い求めた。仕入れ現金払いが新七の方針だったが、現金払いは資金の手当が大変だった。また、幕府の土台が揺らぎ始めた時期でもあり、なかなかモノが売れない時代に突入していた。
文久3年(1863)、薩摩・会津藩と長州藩との間で激しい戦闘となった蛤御門の変のあおりで大火災に遭った飯田新七一家はまず家財道具を本圀寺へ運んだ。二代目の新次郎は丁稚たちを督促して、土蔵内に全商品を運び込んだ。一晩中続いた火災の翌日、焼失町は811町に上り、京都の中心部の大部分が焼け野原と変わっていた。ところが、新七の指示で土蔵の中央に風呂桶を据えて水を張り、要所要所に水を満たした四斗樽を何本か配しておいたのが奏功、土蔵も商品も無事だった。高島屋は土蔵前に急ごしらえの店をつくって、焼け残った衣料品を売り出した。すると着の身着のままの人もおおかったから、あっという間に売れ、二代目が大量に買い込んで困っていた木綿地も含め売れに売れた。初代63歳、二代目39歳のことだ。 二代目は53歳の働き盛りで急逝したが、二代目夫人の男勝りの見識と統率力によって、高島屋は存亡の危機を切り抜け、この後、明治時代の呉服商として見事に発展していった。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」
高島屋飯田新七 百貨店・高島屋の始祖、屋号は滋賀県高島郡から |
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