天保9年(1838)10月、富山藩の下級武士、安田善悦の家に、長男岩次郎が誕生した。後の安田財閥の創始者、安田善次郎である。父は武士とはいえ、先祖伝来の武家ではなく、士分の株を金で買ったもので、それも御長柄と呼ぶ最下位の身分だった。
安田岩次郎は、上級武士と出くわして雪の中に土下座する父の姿と、上級武士を駕籠脇に従えた、大名貸ししている大阪の両替商の店員の姿をみて、金を儲けて何が何でも千両分限(資産家)になるぞと決意。そして、商人として成功するにはやはり江戸へ出る必要がある−と密かに決心した。
彼は跡取り息子なので、とても親の許しが得られまいと考え、こっそり家を抜け出した。しかし一度目は失敗してすごすごと帰ってきた。だが2年間、岩のように黙って働いたが、やはり江戸へ出たいという思いは募る一方だった。しかしいくら頼んでも許されないので、二度目の家出を敢行した。安政3年(1856)、江戸市中に入った岩次郎は、その巨大さに目をみはった。想像を絶する家数の多さと人口の巨大さと驚くほどの繁盛ぶりに圧倒された。しかし、それだけにここなら稼げるという思いも深まった。彼はかねてから目をつけていた富山出身の銭湯主を訪ねて、手伝いをさせてほしいと頼み込んだ。銭湯を手伝っているうちに、日本橋の乾物屋の小僧に就職した。ところが、富山出身者を頼ったため、郷里の父にたちまち居所が知れてまたもや連れ戻されてしまった。
しかし三度目の正直で、安政5年(1858)、今度は父を説き伏せて、ようやく晴れて江戸へ旅立った。今度は玩具問屋に奉公した。毎日、岩次郎は天秤棒を担いで得意先へ玩具を卸して回った。足掛け3年勤めてやっと慣れたところで、主人夫婦に娘婿に望まれ、自分が跡取り息子なのでこれを断り、日本橋小舟町の広田屋に再就職した。広田屋は両替と海産物の販売を兼ねていた。両替といっても金銀貨を銅貨や鉄銭と引き替えて手数料をもらうという、いわゆる銭両替商で細かい商売だった。ここでもよく働いたが、3年経つと彼は考えた。このまま奉公していたのでは千両分限はおろか、十両の金も貯まらない。といって、手元にある3両の金では資本金になりそうになかった。
続く