これは米沢藩・九代藩主上杉鷹山が前藩主の実子、治広に藩主の座を譲り隠居するときに藩主の心得として与えた『伝国之辞(譲封之詞)』にある言葉だ。
全体を記すと、
一、 国家ハ先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にハ無之候
一、 人民ハ国家に属し足る人民にして、我私すべき物にハ無之候
一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には是なく候
 ここでいう国家とは米沢藩、人民とは領民のこと。「藩と藩民は大名やその家臣が私するべきものではない」と力強くその公共性を説いている。これは今日でいう「主権在民」の思想だ。まだジャン・ジャック・ルソーも生まれていないし、フランス革命も起こっていない。米国でリンカーンが「人民による、人民のための、人民の政治」と声高に叫んだあの有名な演説よりはるか前に書かれたものだ。徳川の厳しい幕藩体制の枠組みの中での発言だけに、その勇気には目を見張らせるものがある。現代の政治家にも、大いにかみ締めてもらいたい言葉だ。米国大統領ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人として挙げたのもうなずける。
 鷹山は明和4年(1767)、17歳で米沢藩主になった時に、自分の決意を和歌に詠んでいる。「うけつぎて国の司の身となれば 忘れまじきは民の父母」がそれだ。きょうからは家臣や藩民の父となり母となり、彼らを慈しむ政治を行おう−との覚悟を述べたものだ。
 上杉鷹山(1751〜1822)は日向(宮崎県)高鍋藩3万石秋月種美の次男で幼名直丸、のち治憲、鷹山は号。宝暦10年(1760)出羽(山形県)米沢15万石の藩主、上杉重定の養嗣子となる。家督を継いだ時の藩財政は、万策尽きた前藩主重定が藩主の地位を放棄し、15万石の領土を幕府に返上しようという前代未聞の決断をしたほどの窮状ぶりだった。
この倒産同然の老朽会社ともいえる米沢藩を鷹山は@従来の諸儀式、仏事、祭礼、祝事を取り止めまたは延期A50人の奥女中を9人に減らすB藩主以下全員、食事は一汁一菜、綿服の着用、贈答の廃止−など12カ条に及ぶ倹約令を公布。また農村の復興に取り組み、藩士たちにも開墾を奨励したほか、農家の副業を奨励し桑・コウゾ・漆の栽培を指導し、製糸技術の改良、織布技術の輸入を図り、京都や越後の小千谷から職人を招いて、産業技術振興に務めた。その結果、藩内に大いに織布工業が興り、江戸でも米沢の織物の声価を高めた。
こうした様々な諸施策によって、天明5年(1785)米沢藩を黒字財政に乗せた後、まだ35歳の若さで鷹山は藩主の座を譲り隠居した。当時はもとより、現代ではとても考えられない見事な進退の処し方だ。
(参考資料)童門冬二「上杉鷹山の経営学」、童門冬二「小説 上杉鷹山」、藤沢周平「漆の実のみのる国」、内村鑑三「代表的日本人」、神坂次郎「男 この言葉」
  上杉鷹山「国家は私すべきものにあらず」