これは安政6年(1859)10月27日、江戸・伝馬町の牢内で斬首された吉田松陰の“最期の言葉”辞世の句だ。もう一つある。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」だ。これは安政元年(1854)正月、米艦六隻を率いたペリーが、前年に続いて浦賀港に現れた時、この米艦に乗り込み嘆願書を渡し、密航を企て交渉しようとして失敗。自首して江戸の獄に下る時に詠んだものだ。両句とも「大和魂」で結ばれているように、日本という国の行く末を見つめた“憂国の心情”があふれている。
わずか30年の生涯を閉じた吉田松陰は、日本の教育者の中でもまれにみる魂のきれいな学者だった。彼が開いた松下村塾が輩出した数々の門人たちが、明治維新の立役者となったことは周知の通りだ。教育現場の荒廃が叫ばれる今日、彼の生き方と彼が遺したものの一端を見てみたい。
松陰、吉田寅次郎は、1830年8月4日、長門国萩松本村護国山の麓、団子岩に生まれた。父は家禄26石、杉百合之助常道。母は児玉氏、名は滝。幼名を虎之助といい、杉家七人兄妹の二男だった。杉家から数百歩離れた所に父の弟、玉木文之進が居を構えていた。虎之助に対する基礎的な教育は、父以上に封建武士に特有な精神主義者のこの叔父に負うところが多かったようだ。松陰は父と同時に、この叔父の大きな影響を受けて成長した。
松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流軍学師範を家職としていた。世襲制である。したがって、吉田家の当主が早く死んだ後は、幼い松陰がこの家職を引き継いだ。天保6年(1835)6歳の時のことだ。厳格な叔父の、年齢を無視した求道者的な教育を受け、早熟な彼は11歳のときにすでに藩主の前で講義を行っているほど。
松下村塾は松陰が開いたものではない。叔父の玉木文之進が開いたのだ。やがて、この塾を叔父から引き継ぐ。松陰は藩に正式な手続きを取らないで、東北など日本各地を歩き回った。その罪に問われて牢に入れられた。牢から出た後も、今後は一切他国を出歩いてはならないと禁足処分となった。そうした制約を加えられて、門人を教えることを許されたのだ。
八畳と十畳の二間しかないこの狭い塾から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。また、驚くのは松陰がこの塾で若者たちを教えた期間がわずか2年にも満たないことだ。こんな短い期間に、あれだけ多くの英才が輩出したのだ。まさに奇跡といっていい。こんな指導者はどこにもいないだろう。
松陰は死学ではなく、生きた学問を教え、「人を育てつつ、自分を育てる」ということを実行。そして、彼には私利私欲というものが全くなく、「人間は生まれた以上必ず死ぬ。だからこそ生きている間、国のため、人のためになるような生き方をしなければならない」と考えていた。弟子たちは松陰のそういうところに心を打たれ、敬慕の念を募らせたのだろう。
(参考資料)奈良本辰也「吉田松陰」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」
吉田松陰「身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂」 |
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