慶応2年(1866)2月、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダを歴訪して、各種の工場や病院などの施設を視察し帰国した五代は、産業振興と富国強兵のニューリーダーとなった。そして御納戸奉行格に任じられて、藩の産業経済の中枢に位置する身となった。まだ32歳の時のことだ。明治維新が成立すると、彼は西郷隆盛や大久保利通とともに新政府の参与に任じられた。薩摩が実行してきた産業立国と富国強兵策を、今度は中央政府にあって断行することとなり、大いに意欲を燃やした。
明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進むことを伝え大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。
五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。
明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」