戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、お市の方もその一人といえる。しかし、お市の方は、後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むおごう、それに京極高次に嫁いだおはつの三人姉妹の母だ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。
 お市は18歳で近江・小谷山城主、浅井長政、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚し、二度とも男の論理によって引き起こされる合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされる。二度目の越前北ノ庄城落城の際、遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。

 さらぬだにうちぬるほども夏の夜の 夢路をさそふほととぎすかな

 越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。美人で頭がよく、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。

(参考資料)永井路子対談集「お市の方」(永井路子vs円地文子)
 お市の方 二度の落城・夫の切腹に立ち会った、淀君らの母