静御前は源義経の妾。ただ、この当時は妻妾の区別がつけられないので、妻が何人もいて、静はその一人と考えた方が的を射ている。生没年不詳。白拍子、磯禅師の娘で、彼女も白拍子。鎌倉時代の事跡を書き綴った「吾妻鏡」によれば、京都で人気抜群の白拍子と平家を壇ノ浦に追討した凱旋将軍・義経との恋だった。年齢は静が10代後半、義経は20代後半のことだ。
ただ、二人が幸福だったのは極めて短い間だった。義経が兄頼朝の不興をかって謀反人扱いされることによって急転直下、悲劇の主人公になってしまう。京都を追われ、都落ちした義経らとともに西国へ向かうが、女人禁制の大峰に入れず、義経と別れて京都へ帰る途中、捕まり、義経探索の参考人として鎌倉に送られる。彼女は義経の子を身ごもっていた。
 静御前は源頼朝・北条政子夫妻に強要され鶴岡八幡宮で舞を舞う。そのとき彼女は次のように詠った。

 しづやしづしづのをだまきくり返し 昔を今になしよしもがな

“しづのをだまき”とは麻糸を真ん中が空洞になるようにくるくる巻いたものをいう。しづのおだまきをいくらくるくる巻いても、昔は戻ってこない。どこかへ行ってしまった義経様が恋しい−という意味だ。
 静御前のひたむきな(あるいはなりふり構わぬ)義経への恋慕の表明にとくに政子は胸を打たれ、激怒する頼朝に助命を請い、静は許されて京都に戻る。しかし、このとき生まれた赤ん坊(男子)はそのまま由比ヶ浜に流されて殺されてしまった。これらのことを含めて考えると、「しづやしづ…」には静の深い哀切の情が満ちている。
 「吾妻鏡」では静御前が京都に旅立った後、いっさい登場しない。このあとどこへ行って、何をしたか、ようとして行方知れず。それだけに、哀れでいとおしさも一層深まる。
(参考資料)永井路子対談集「静御前」(永井路子vs安田元久)
 静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子