光明皇后は16歳で聖武天皇の妃となり、後に皇族以外では初めて皇后位に就いた藤原“摂関政治”のいわば看板娘だ。彼女は病気がちの聖武天皇に代わって、東大寺や国分寺の建立を進めたり、孤児収容の悲田院や、貧民のための医療施設である施薬院をつくるなど、有為な政治家だったと伝えられる。ただ、異説を唱える人もあり定かではない。
彼女の生没年は701〜760。父は「贈正一位太政大臣」藤原不比等、母は「贈正一位」県犬養橘三千代、名は安宿媛・光明子。孝謙天皇の母。
天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、ここに孝謙天皇(女帝)が誕生する。しかし、この天平勝宝年間(749〜757)から天平宝字4年(760)、光明皇太后が没するまでの約10年間の事実上の政治の実権者は光明皇太后だった。
これにはいくつかの証拠がある。その一つは『続日本紀』にある孝謙天皇の「詔」の中で、彼女が「朕がはは」光明皇太后を「オオミオヤノミカド(皇太后朝)」と呼んでいる点だ。皇太后朝というのは、一種の天皇だ。とすれば光明皇太后は、この孝謙帝の時代から実際の天皇だったといわねばならない。彼女は元明・元正女帝などより、はるかに強い権力を持っていたのだろう。
しかし、彼女は藤原氏出身だ。藤原氏の出身の前皇后が次の天皇となることはできない。それでやむなく、彼女は「紫微中台」にとどまった。「紫微中台」というのは、言葉の上でも実際の天皇を意味する。つまり、彼女は「女帝」だったのだ。
幼い時から藤原一門の期待を担って、彼女には“皇后学”ともいうべき教養が与えられたが、それはインターナショナルな中国の文化を核とするものだったろう。そんな彼女にとって留学帰りの僧玄_と下道真備、後の吉備真備の二人は唐文化の理念的知恵・仏教と実際的知恵・儒教と律令の知識そのものだった。光明皇后は、この二人を重く用いれば国家は十分治まると思ったに違いない。天平9年の兄の4兄弟、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の相次ぐ死で、自身の権力を支える大きな後ろ楯を失った彼女は心に深い不安を抱えていただけに、玄_と真備の存在には救われる思いすらあったのではないか。
その“のめり込み”が高じて、玄_が彼女の恋人として選ばれたのも当然の成り行きだったかもしれない。皇后と、天下に名だたる高僧だったとしても、生身の女と男、その間に肉体関係が生まれたとしても不思議はない。
(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子対談集「光明皇后」(永井路子vs竹内理三)