県犬養氏は一族に壬申の乱の功臣、大伴氏を持ち、その縁からか三千代は天武朝の女官となった。初めは敏達天皇四世の子孫、美努王(三野王)と結婚し、葛城王(後の左大臣・橘諸兄)と佐為王ら三子を産んだ。詳細は不明だが、10代の後半で妻となり、10代の末ぐらいに最初の子を産んだのではないか。しかし、新しい時代の律令政治に戸惑いをみせる美努王との生活が破綻。
彼女は軽皇子(後の文武天皇)の乳母として養育にあたり、持統女帝および阿陪皇女(後の元明女帝)の信任を得て、次第に後宮の内部に地歩を固めていった。
 持統11年(697)8月1日、後宮の長・三千代の最大の願いだった15歳の皇太子・軽皇子が皇位に即位する。そして、持統女帝は太上天皇に就く。そしてこの頃、美努王と離婚し、藤原不比等の妻となり、安宿媛(光明子)を産んだ。
慶雲4年(707)25歳という若さで亡くなった文武天皇の後を受けた元明女帝(文武天皇の母)は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼し、即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その功をねぎらい、橘の氏称を賜与した。715年に尚侍(ないしのかみ)となって女帝に仕え、後宮の実力者として君臨した。
後の“藤原摂関政治”の礎を築いたのは不比等だが、それは、三千代の存在を抜きには決して語れない。不比等に対する皇族の厚い信頼のもと、後宮を完全に掌握していた三千代との二人三脚があってこそ、初めて実現したものだったのではないだろうか。
 不比等の先妻が産んだ宮子(文武天皇の夫人)の子・首皇子(後の聖武天皇)を皇位継承者とするために、表では夫・不比等が、裏では三千代が擁護した。翌年には娘の光明子を首皇子に嫁がせたが、これも彼女の発言力がものをいったのだろう。藤原不比等の孫(首皇子=後の聖武天皇)が夫に、不比等と三千代との間にできた子(光明子=後の光明皇后)が妻になったわけだ。
 不比等の死後、次男の房前が参議・内臣となり、朝廷内の実力者となるが、房前には先夫との間の牟漏女王が嫁いでおり、ここでも三千代の庇護が好影響を及ぼしているとみられる。
 持統・元明・元正と三代の女帝に仕えた彼女は、江戸時代の春日局のような後宮の実力者だったのだろう。
(参考資料)黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、神一行「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」、梅原猛「海人と天皇」
 県犬養橘三千代 藤原不比等を支えた後宮の実力者