ああ弟よ君を泣く 君死にたまふことなかれ
  末に生まれし君なれば 親の情けはまさりしも
  親は刃をにぎらせて 人を殺せと教えしや
  人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや
 明治37年(1904)、日露戦争の宣戦の布告が出されたとき、与謝野晶子は上記の「君死にたまふことなかれ」という、一見、反戦詩と思われる作品を発表した。
最初の一連のみ記したが、この詩は五連から成っている。この戦争に晶子の弟が召集されたのだ。晶子は第一連で「弟よ、死んではいけない。お前は末っ子で人一倍、親の情けを受けた。親はお前に人を殺せと教えたか」という。第二連では「お前は堺の町の商人で、その旧家を継ぐ人間だから死んではいけない。旅順の城は滅んでも、あるいは滅びなくても、それが商人にとって一体何であろう」と諭す。
この詩に多くの人は驚いた。なぜなら与謝野晶子は歌集『みだれ髪』(明治34年)などで大胆にして艶麗な歌を詠む歌人として知られていたからだ。
 当然、晶子のこの詩は物議をかもした。当時、徴兵兵士たちに政治家や学者、詩人の多くは「スメラミコトのおっしゃるように、お前たちは人をなるべく多く殺し、そして死ね」と語る時代だったのだ。それでも、「天皇の詔勅を非難した詩」という批判に対し、晶子は「詩というものは、人間の心情を詠むもので、誰がわが子を、わが弟を、死んで帰れ、と戦場に送り込むであろうか」ときっぱり反論した。戦時体制下の発言の難しい時であっただけに、まさに新しい時代の旗手を感じさせる言葉だ。
 晶子は明治11年(1878)、大阪府堺市に江戸時代以来続いた駿河屋という羊羹で知られた和菓子の老舗、鳳宗七の三女として生まれている。異母姉が二人、同母兄一人、のち「君死にたまふことなかれ」のモデルになる弟、籌三郎(ちゅうざぶろう)が生まれている。堺女学校に通うようになると、そのかたわら店の帳場を手伝い、また父宗七の蔵書を読み、次第に文学の世界にのめり込んでいった。
 彼女が実際に詩と歌を発表し始めるのは明治32年(1899)からで、浪華青年文学会の堺支会に入り、その機関紙「よしあし草」に鳳小舟のペンネームで詩と歌を発表したのが最初だった。ちなみにこの年、後に結婚することになる与謝野鉄幹(その頃は寛)らが東京で新詩社を結成し、翌年から機関誌『明星』を発行し始める。続く
 与謝野晶子 日露戦争に“一石”投じた「君死にたまふことなかれ」