晶子は明治33年5月に発行された『明星』第二号に短歌「花がたみ」六首を発表している。同年8月、その後の晶子の人生を変える出会いがあった。鉄幹が大阪に講演にやってきたとき、その宿を訪ねているのだ。この時、歌友達の山川登美子も一緒だったが、晶子も登美子も鉄幹に恋心を抱いてしまった。晶子23歳、登美子22歳、鉄幹28歳だった。
ただ、鉄幹にはすでに滝野という妻がいた。またその前には浅田信子という教え子との間に一女をもうけていた。しかし晶子も登美子も妻のある鉄幹に夢中になっていった。正式な妻がいるので四角関係というわけだ。このうち山川登美子は親の勧める縁談を断りきれず、恋のレースから脱落していき、遂に明治34年正月、晶子は鉄幹と京都の粟田の宿で結ばれた。
 ところが、この不倫は何者かによってすぐ暴露されてしまった。それが「文壇照魔鏡事件」といわれる。明治34年3月、「文壇照魔鏡」と題する鉄幹非難の怪文書が文士たちの間に出回った。内容は「鉄幹は処女を狂わしめたり」と、妻がいながら若い女弟子との肉体関係を持つ鉄幹を批判するものだった。正妻滝野は立場がなく、子を連れて鉄幹のもとを去り、後に正式離婚する。
 滝野が去った後、晶子が上京し鉄幹との同棲を始めた。6月6日のことだ。晶子が自らの奔放な青春の情熱を歌い上げた歌を集めた、彼女の第一歌集が『みだれ髪』だった。同書が刊行されたのは8月15日で、その中には有名な、
  やは肌のあつき血汐にふれもみで さびしからずや道を説く君
などの官能的な歌がたくさん含まれていた。10月になって、鉄幹が滝野と正式に離婚した直後、晶子は鉄幹と正式に結婚した。
 『みだれ髪』だけなら、晶子に対する評価は「官能的な新しいタイプの歌人」という程度で終わってしまっていたかも知れない。彼女の名を高めたのは冒頭に挙げた、明治37年(1904)の『明星』9月号に掲載された「君死にたまふことなかれ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて)と題する長詩だった。この作品によって『明星』が、そして晶子が新しい時代の文壇の旗手となった、
(参考資料)渡辺淳一「君も雛罌栗(コクリコ) われも雛罌栗(コクリコ)」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、梅原猛「百人一語」 
 与謝野晶子 日露戦争に“一石”投じた「君死にたまふことなかれ」