これは河村瑞賢が晩年、その著書『農家訓』の中で語っている言葉の一節だ。長いので中略して主旨部分を記すと「夢幻の身を以って夢幻の身を養い、夢幻の身を育て夢幻の身を厭い、なすところはみな夢幻にして、不思議(思考を超えた)の法門に入り、すなわち実相(真理)を悟るべし。(略)すみやかによろしく有縁(仏法に縁のある)の教法によって、未来の解脱(現世の苦しみから解放され絶対自由の境地に入る)を得るべし」だ。
 徳川・元禄時代、天下有数の政商となり、旗本にまでのし上がった瑞賢にしては、ずいぶん気弱な無常観に満ちた言葉だ。これが功成り名遂げた人間がたどりついた、枯れた境地なのか。
 瑞賢は元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村の貧しい農夫太兵衛の長男に生まれた。通称を十(重)右衛門。生活の道を求めて13歳で江戸へ。だが、江戸での車力(車曳き)暮らしに絶望した彼は、やがて都落ちする。その失意の道中の小田原宿で、彼は旅の老僧に諭され、再び江戸へ引き返して行く。そして品川の海岸まで来たとき、折から盂蘭盆過ぎで浜辺には仏前に供えた、おびただしい量の胡瓜や茄子が打ちあげられていた。「これだ」と感じた彼は、乞食たちに銭をやり、それを拾い集めさせ漬物にして売り出し、大もうけした。一般によく知られている瑞賢の出世譚の一つだ。 
こうして稼いだカネを資金に、大八車を買い求め車曳きたちを集め車力業の第一歩を踏み出した。大江戸開発ブームの花形である車両運送の親方になった十右衛門は、稼ぎ集めたカネを投入して材木商となり、さらに普請と作事、つまり土木と建築の請負業へと転進する。 
 そして明暦3年(1657)江戸城をはじめ江戸市街の大部分を焼き尽くした未曾有の大火が起こる。「いまだっ」と感じた瑞賢は手元にあった10両を懐中にして木曾へ走った。江戸大火の風評も届かぬ先に木曾にたどりついた彼は、山林王といわれる屋敷の門に駆けつけ、庭先で遊んでいたその家の子供を見ると、懐から小判3枚を取り出し、小柄で穴を開けこよりを通してガラガラ玩具をこしらえて与えた。
子供がもらった小判の玩具に驚いた主人は、瑞賢をよほどの分限者(富豪)と思い、後からカネを持ってくる番頭を待っているという瑞賢を信用し、持ち山すべての材木を売り渡す証文に印を捺した。そして、瑞賢が雇った人夫たちが伐り出してきた材木に「河村」の刻印を打っているころ、ようやく江戸の材木商たちが木曾材の買い付けになだれ込んできた。
 が、もう遅い。彼らは瑞賢から彼の言い値で高価な材木を買うしかなかった。材木商たちに売却した代金で山林王への支払いを済ませ、残りの大量の材木を江戸に運んだ瑞賢は、他の材木商よりはるかに安い材木を売り出し、すべて売り尽くして巨利を博したという。抜群の知恵者、瑞賢の一端を示すエピソードの一つだ。
 ディベロッパーとしての瑞賢の偉大さも見落とせない。彼は「幕府御用」の金看板のもとに海運界の地方分権(諸国大名領)を解体し、幕府のお声がかりの事業として奥州(福島、宮城、岩手、青森)からの東廻りの航路、そして近世海運史上画期的ともいう出羽(山形)からの西廻り航路を開発したのだ。この航路の出現によって、江戸、大阪はもとより諸国の都市に飛躍的な繁栄をもたらした。
(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」、神坂次郎「男 この言葉」
  河村瑞賢「なすところはみな夢幻にして、実相を悟るべし」