これは、黒田官兵衛が臨終の床で紫の袱(ふくさ)に包んだ草履片方、木履片方と溜塗の面桶(弁当箱)を形見として嫡子長政に与え、語った言葉の一部だ。全体を記すと、「軍(いくさ)は死生の界なれば、分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」だ。戦さは生きるか死ぬかの大ばくちゆえ、思慮が過ぎては大事の合戦はできぬ。時によっては草履と木履を片々にはいても駆け出す心構えがなくてはならぬ。また、食物がなければ何事もできぬものなり。ゆえに金銀を使わず、兵糧を貯え、一旦緩急の軍陣の用意を心がけておけ−そう語ったという。
 黒田官兵衛(孝高・号して如水、1546〜1604)。幼名を万吉といい、播磨国(兵庫県)御著(ごちゃく)城の主、小寺政職の猶子(養子)、美濃守職隆の子。黒田家の出自は、戦国大名の多くがそうであるように、はっきりしたものではないが、近江国伊香郡黒田だといわれている。黒田氏が近江から備前国福岡に転じたのは永正のころで、戦乱を逃れてさらにそこから播磨の御著に移り住んだ。この地で黒田家は家伝の目薬「玲珠膏」を商い、小地主になった。官兵衛の父のころになると、近隣に鳴り響くほどの大地主にのし上がり、黒田家の郎党、下男は200人にも及んだという。こうして彼は小寺官兵衛の名で歴史の舞台に登場する。
 中国攻めの軍を率いて播磨に下向した当時の羽柴秀吉を姫路城に迎えた官兵衛は、秀吉に三つの策を献じている。いずれも卓越した策だった。この智謀に舌を巻いた秀吉は官兵衛と誓書を交わし、兄弟の約を結んだといわれる。以来、官兵衛は秀吉の参謀の竹中半兵衛とともに、帷幄(本陣)の謀臣として数々の卓絶した作戦を展開した。
中でも京都・本能寺の変に接したときの官兵衛の策は見事だった。ただ、少しやりすぎた。本能寺の変の飛報を受けて秀吉が呆然としているのを見て、官兵衛は微笑を浮かべて「ご運の開かせ給うべき時が来たのでござりまする。この機を逃さず、巧くおやりなされ」と囁いた。秀吉は自分の心中の機微を苦もなく見抜いた官兵衛の鋭さに驚き、以後、警戒し心を許さなくなったという。秀吉が官兵衛ほどの天下第一流の参謀に生涯、豊前中津で12万2000石の小禄しか与えなかったのは、このことがあったからとだといわれる。後に官兵衛は、このことを秀吉が側近の者に洩らしたという噂を耳にするや、髪を下ろして隠居し、如水を号し、家督を嫡子の長政に譲ってしまった。さらに官兵衛は、秀吉の疑心を避けるために側近を離れず参謀として小田原征伐、朝鮮の役に従っている。官兵衛の芸の細やかなところだ。
秀吉の死後、官兵衛は家康に与したが、心底では「あわよくば天下を」と虎視眈々、野心を燃やし続けた。関が原の争乱に乗じ、豊前中津を打って出て豊後、筑前、筑後など手当たり次第に攻略し、我が手に納めるという怪物ぶりを発揮した。そして、官兵衛の心中はこうして九州全土を制圧したうえで、徳川家康と石田三成が戦い疲れたころを見計らって中央に進出し、天下を掴もうという魂胆だったという。しかし、世の形勢が家康に動いていると見るや、関が原の戦後、いままでの謀反気など全くなかったかのように、ぬけぬけと家康に祝いを述べ、息子の長政のために筑前福岡52万石をちゃっかりせしめている。戦国の勝負師、黒田官兵衛の面目躍如といったところだ。
(参考資料)司馬遼太郎「播磨灘物語」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」     
  黒田官兵衛「分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」