平清盛の妻、時子はごく普通の女だった。その彼女が一門の棟梁となる清盛に嫁いだがゆえに、本人の意思とは関係なく、好むと好まざるとに関わらず、権謀渦巻く政治の世界に投げ込まれ、激動の時代を生き、様々な体験を積んでしたたかな女になっていった。
時子は当時、公家社会で一般的だった妻訪い婚ではなく、徐々に行われるようになった嫁入り婚で嫁いできた。そこで、夫の周辺に女の影が見えるたびに嫉妬の炎を燃やす平凡な女性で、夫の浮気に関わりなく妻の座が安定していることに困惑し、ふさぎ込んだりすることもある。後年、従三位という女として高い地位にも就いた時子だが、精神的には現代の女性とも相通ずるものが流れている女性だったのだ。
保元・平治の乱を経て平家の勢力が台頭、清盛は8年の間に正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣となった。また清盛は時子を二条天皇の乳母とし、時子の妹滋子を後白河天皇のもとに上げる。そして後白河と滋子(建春門院)との間に生まれた皇子が即位して高倉天皇となり、そのもとに清盛は娘の徳子を入内させる。やがて徳子は後の安徳天皇を出産。思惑通り外祖父となった清盛は、年来の夢を懸けた海の王宮、福原への遷都を決行。新都を構えた平家一門は隆盛の絶頂期を迎えた。
しかし、それは転落の序章でもあった。東国では源頼朝の武士団が日増しに勢力を拡大。高倉帝の病状悪化で福原から半年で還都。やがて高倉帝に続いて清盛が急死。清盛亡き後、平家の総帥となった宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし最悪の道を選択してしまう。その結果、源氏に追われた平家一門は西国流転の途をたどる。京から福原へ。屋島へ、そして壇ノ浦へと移った平家は東国武士団の組織力の前に敗退を重ねていく。
ここで、平家一門の運命は時子の双肩にかかる。帯同する、建礼門院となった娘の徳子に安徳帝を守る判断力がなかったことも、彼女をしたたかな女にしたことだろう。時子は、清盛が築いたこの時代をともに生きた自分とその子供たちは、それぞれの運命を分け持って生きてきた。そして、その最後の幕を引くのは自分しかいない−と判断。母親の建礼門院(徳子)を措いて、祖母の時子が8歳の安徳帝を抱き、三種の神器とともに瀬戸内の海に身を投げ生涯を閉じる。鮮烈な最期だ。その時子の辞世がこれだ。
いまぞ知るみもすそ川の流れには 波の下にも都ありとは
海の底にも都があってほしい−という彼女の切実な願望が込められている。
(参考資料)永井路子「波のかたみ−清盛の妻」
平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に |
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